チビトマト
毎週、友だちの高田くん夫婦が作っている無農薬野菜の宅配をお願いしている。
すごくおいしいし、とにかくきれい。
私は料理が別に好きではないので、子どもたちに凝った美味しい料理をつくると考えただけで、ものすごくプレッシャーになる。
料理が好きではないうえにデザイン的な美的感覚もかなり無いので、お弁当とかは本当に「ごめんねーーー!!!」という代物なので、幼稚園はほとんど給食にしている。
最初は給食にすることに対して謎の罪悪感に(勝手に)包まれていたけど、今はむしろ、うちで作らない色んなものが食べられるからいいんじゃないかなと思っている。
で、話は戻って、そんな感じで、子どもが喜んで栄養たっぷり!みたいないわゆる感じの料理に全然興味がないのだけど、それだけじゃなくて、素材が美味しければいいんじゃないか、というか、自分自身が好きで美味しいと思うものが、色々手の込んだ物より素材が新鮮でちゃんとした調味料でシンプルに作られたものだからだと思う。(手の込んだものをそんなに食べたことが無いだけかもしれないけど)
私のいちばん好きな食べ物は自分で作ったおにぎりなのだけど、やっぱり水と塩と海苔は美味しくあって欲しい、ていうかそれが美味しくないとかなり辛い。
おにぎりの美味しさは、素材と、作り手の、手だ。
友だちの野菜は無農薬で安心なのはもちろんだけど、やっぱり、大好きな友だちが作ってる!ということが美味しさを何倍にもしてると思う。
そしてそういう、友だちが愛情をもって育てたものを食べて子どもたちが育つ、ということは、本当に有難いことだと思うし、子どもたちは意識してなくても、きっとそういう「エッセンス」みたいなものは、きっとずっと子どもたちの身体に残って、大きくなって私の手を離れても、ピンチのときにはそのエッセンスがきっと彼等を助けてくれる、と信じている。
その息子(タオ、もうすぐ5歳)がやたらトマトが好きなので、ミニトマトでも作ってみようかと、ベランダにプランターを置いて苗を植えてみた。
小さなトマトの赤ちゃんがポツポツ実り始め、毎日それを、大きくなってきたね、とか言いながら見ていた。
いちばん最初に赤くなったトマトはタオにあげるね!と言っていたら、ある日、タオがこういった。
「赤くなったら、高田くんにあげるよ。そしたら高田くんがまたトマトをたくさんにしてみんなにあげれるよ」
私は、なんて偉いんだ・・・と感心した。私だったら自分の食べる分ばかり考えてしまうところを、この子は高田くんにあげてみんなにあげれるようにするなんて、こんなに小さいのにそんなことを考えているんだなぁと思った。
子どもに学ぶことは本当に多い。
トマトを作ることで食べ物の大切さを知ってほしい、なんて私の想いをはるかにすっ飛ばして(其れも大切だと思うけど)、タオはそれをみんなに分ける方法を考えていた。
いつも思うけど、私が口でなんやかやいうよりも、はるかにたくさんの素晴らしいことを子どもたちはしぜんにあらゆるものから学び取っている。
きっと高田くんの作る野菜たちからも、理屈じゃなくて、それを日々食べるていることから、文字どおり、吸収しているんだと思った。
子どもと接していると、自分の浅はかさや傲慢さに恥ずかしくなることがいっぱいあるけど、それに卑屈になることも縮こまることもなく、あぁ、それってすごくいいね!すごくすてきだね!私もそうなりたい!って言えるようでありたい。
卑屈さとか、縮こまることとか、逆に傲慢になることとか、蔑む事とか、優劣をつけることとか、
もうそういうことから本当に足を洗いたい。
それはただのクセだと気付いて、あ、またやっちゃったなって秒速で軌道修正していきたい。
クセだからこそ、とにかくとにかく、気付いたら、日々修正していくしかない。地味に、地味に。
それこそ自分の畑を耕すように、ひとつひとつやっていくしかないんだなぁと思う。
🍅
見たい
ものがたりを書いている。
誕生日までにカタチにしようと思って。
ウィンドウタッチも出来ないのし、電話の画面は目が疲れるので、ひたすらノートに手書きで書いている。
スーパーアナログだ。
手が遅くて追いつかないからグチャグチャのミミズみたいな文字だけど、とにかく出てくるものをひたすら書き写す。
どんな話になっていくのか、全く見当もつかない。
物書きになりたいと前に書いたけど、なんでかなと思ったら、やっぱり書くのが好きだからなんだけど、それだけじゃなく、
おかしな言い方かもしれないけど、
やるしかないからやる、としか言いようがない。
書くしかない、書かないわけにはいかない、書くほか仕方ない。
小説家や、有名な作家さんを思い、自分の書いたものの拙さに恥ずか死しそうになり、わたし、何やってんだろう・・・と絶望的に思いそうになることもたくさんあるけど、その気持ちを振り切るように、とにかく毎日書く。
逃げてるだけなのだろうか、と思ったりもする。
何かをやってるつもりになって、なにもない自分を誤魔化しているんだろうかと。
そうなのかもしれない、でももしそうであっても、何もせず腐っていくよりはずっとマシだ。
文章も下手で、意味がわからなくて、ぜんぜん理解されなくて、面白くないって言われるかもしれない、馬鹿にされるかもしれない、でも、物語を書き上げてみたい、書き上げたときに私はどんな気持ちなのか、知りたい。
自己満足でもなんでも構わない。
やってみたい、そして知りたい。
書き上げた物語を前に自分の力の無さが悔しくて悔しくてたまらない、その向こうに私は何を見るのか、知りたい。
ただ、その向こうの景色が見たい。
明日から6月。
大人になれば
朝、子どもと公園に行き、ただ子どもの動くほうへなんとなくついて行き、なんとなく見たり、時々話しかけたりしていた。
私は子どもと遊ぶことが本当にできないので、自分の好きなようにしている。
まだ下の子は小さいのでいっしょにいられるけど、上の子はもう五歳で、戦隊モノとか、ポケモンとか、色々話してくるけど、申し訳ないほど本当に興味がないので、そうなんだーとか、へ〜とか、すごいねーとか、かなり空返事を返している。
好きな分野の話なら、できるけど。
で、下の子は、シロツメクサをブチブチちぎったり、花の匂いを嗅いだり(わたしのまね)、いた!いた!と片言でアリを発見したりして、かなり面白い。
子どもが普通に地面に座ったので、あ、そうだよね、と思いわたしも座った。
それまで足先が冷えて仕方なかったのがじんわりと足先まで血が通ってあったかくなった。
座ったままで子どものちぎるシロツメクサを手のひらに受けながら、木や空を見ていた。
通り過ぎる人や自転車を見ていた。
向かいのお花屋さんからラジオの音が流れてくる。
開店前のお花屋さんは、なんとなく生き物の生きている新鮮な空気が漂っていて、あぁ、いいなあと思う。
朝なのにもうすごく暑くなってきた。
でもまだ五月。
風は爽やかだ。
いつか今日のことを思い出すのかな。
でもきっと本当には思い出せないんだろう。
捕まえることができない今というものの中に私たちは生きていて、本当は一瞬もそこに留まることはできない。
みんなそれをわかっていても、それはなるべく見ないようにして生きていく。気がする。
そのほうが、都合がいいこともたくさんあるし、そのほうが痛みが少ないから。きっと。
でも、と思う。
子どもの目線で見る世界はいつもよりもずっと広かった。
大人になるってなんなんだろーなーと思う。
わたしは子どもの頃になりたい。
戻りたいわけじゃない、はず。
今のままで、未来のあの頃になりたい。
未来のあの頃のもっといいやつ。
大人ってなんだろうね。
わからないや。
それならば。
キリンジの「エイリアンズ」という曲が凄く好きだ。
美しいイントロと、美しいメロディと、美しい歌声と、あの歌詞。
まるで僕はエイリアン、じゃなくて、
まるで僕らはエイリアンズ。
ひとりじゃなくて、ふたり。
ぼくたち。
わたしたち。
二人きり。
それはすごくしあわせな事だなって思う。
人は一人だなと思う。
人は、と書いたけど、ごめんなさい、他の人のことはわからないです。
人は、というか、自分は。
どこまでいってもひとり。
誰といてもひとり。
でもひとりじゃない。
でも、ひとりだ。
だったら。
それならば。
それならば。
オーケストラのように、
それぞれが別々の楽器を持ち寄り、最高に美しいメロディを奏でるのを、聴きたいし、奏でたい。
私は私の楽器で。
あなたはあなたの楽器で。
そしてその音楽を、分かち合い、楽しみたい。
海の向こうの海
昨日、髪の毛を切るために久しぶりに街に出た。
通り道に、とても小さいけど、巨木が立派な神社があるので、御守りを返しに行こうと立ち寄った。
お参りをして、なんとなくおみくじを買うことにした。
無人の台の上に、おみくじが置いてある。
丸い穴に手を突っ込んで取るやつ。
一回50円。
お財布には100円しかなかった。
どうしようかな、と一瞬迷って、二枚取った。
二枚を手の中でくるくる回しながら神社を後にした。
道を歩きながら、開けてみると、中吉だった。
親族にも不幸が起こるからほんっとにおとなし〜くしといたほうが身のためだよ、という、かなり渋い内容が書いてあり、願い事もことごとく渋られていた。
おぉ・・・と思いながら、もう一枚を開けた。
大吉だった。
素直に欲を捨て人のためにあればますます状況よくなります大吉、と書いてあった。
願い事はもちろんほぼ叶うとのこと。
迷わず大吉を手にしっかりと持ち、中吉を細く折りたたみ、くくりつけるために神社に戻った。
さようなら中吉、そう思い神社を再び後にしたときに、これってすごい、おもしろいなと思った。
わたしが最初に引いたおみくじは、果たしてどっちだったんだろう?
もし100円入れて一枚だけ引いていたら、どっちを引いていたんだろう?
そしてそれをどう思っただろう?
一枚だけ引いていたおみくじが大吉だったら、お金を多く入れても誠実に一枚だけ引いたからだな、とか思ったかもしれない。
中吉だったら、こんなことならもう一枚引いときゃ良かったと思ったかもしれない。
わからない。
50円しかなかったら、一枚だけ引いて、やった〜!か、えー!なんだよ〜!だった。
でもわたしはそのとき100円しかなくて、それならと二枚引いて、どっちか好きなほうを選んだ。
これってすごく面白いな、と思ったのだ。
自分に制限をかけずに、好きにやって、好きな世界を選ぶって、こんな感じかな?と。
今回はたまたま大吉と中吉だったけど、二枚引いたらどちらも中吉もしくは凶ってこともあるわけで、
もしそうだったとしても、やっぱり選べる。
それを選ぶのか選ばないのかを。
なんなら納得するまでおみくじを買ったっていいじゃない。
こうじゃなきゃいけない、とか、ズルイ、なんて声は無視して。
かみさまだって、それぞれみんな幸せなほうがうれしいんじゃないかと思う。
大吉?やったー!って私みたいに単純な人もいるだろうし、中吉?よし、ここに書いてあることを教訓にバネにしてより良く改善するぞ!っていうことにやりがいを見出す人もいるだろうし。
ほんとうに、人それぞれなんだな、と思う。
そんなことを考えてたら最初の目的だった、御守りを返す、というのを忘れて、また神社に戻った。
そして美容院に行く途中で道に迷って、少し遅れたけどちゃんと着くことができた。
地図を見てもほとんどの場合道に迷う。
でも、だいたいなんとかあらゆる方法で着けるので、だいたいなんとかなるものなんだな、と最近改めて感じている。
でもほんとは余裕を持って辿り着きたい。
余裕を持ちたい。
なんにしても。
追記:エビ入りパッタイを作る
追記:
何もしたくない、しない!と言いながら、
普段よりもめんどくさい、普段もなかなかしない(めんどいから)エビの背ワタなんか取って、パッタイを作ってる自分のナゾ
何にもしたくない、より、微妙に、エビ食べたい、の方が勝ったらしい
それというのも、先日の東京旅行のときに食べたパッタイに、エビが入ってなくて(それはそういうものだったのか、忘れたのかはわかりません)、
そんなに気にしてなかったと思ったのだけど、
私の身体は、
エビの入ったパッタイが食べたいんだよ!!!
と、思っていたらしく、
それがこの、なんにもしたくない今日に、爆発したんだなと思う
そんなにエビの入ったパッタイが食べたかったなんて、気づかなかったよ
でも、何もしたくないと言いつつスーパーでエビを買って背ワタを取りパッタイを作るなんて
なんていうか、
すごいな〜って思う
こうしたい!からの、こうする!のエネルギーって、たぶんすごいものがある
それを押しとどめたらそりゃ病気にもなるわ・・・と思う
機械の電流が逆流したらショートするのとおんなじなんだな、きっと
一気にショートしないように停電したり放電したり、身体は色々持ち主を生かすためにがんばってくれているのだなあと思った
でもまぁ、やっぱり疲れたから、あとはもう何もしたくないデス
なにもしたくない日
今日は朝からぼんやりしてる
頭が働かない
だいたいこういう時は、新月の前
足もだるくなるし、動くのも億劫になる
頭が働かないと、頭が静かで良い
身体も動かないから、無理もしない
身体も頭も動くと、やりたくないこともだいたい出来てしまうから、
こういう、
ほんっとなんもやりたくないわーっていうときも、
たいせつだなーと思う
そう思うことすら、ぼんや〜としてる
子どもがいるとあれやんなきゃこれやんなきゃとか思ってるけど、
ほんとにそうなのかな〜
今日はもうお米炊くのすらめんどくさい
お味噌汁だって作りたくない
なので、や・ら・な・い
ものすご〜く何かをやりたいときもあるし、今日みたいになーんにもやりたくない日がある
それが自然だよな〜と思う
なんにもやりたくないからやらない、って言えるのって、幸せだな〜と思う