いのちの車窓からを読む2
ずいぶん暗いような話になってしまっているけど、別に暗い話を書きたいわけではない。
書きながら忘れていたことなどをありありと思い出す。これはたぶん今後の自分のための「作業」なのだと思うので、書く。
星野源くんいうところのエゴそのものだと思うけど、書く。
今振り返ってみるとこの引きこもり拒食時期は自分にとってとても大きなターニングポイントで、今の私になる核が全て詰まっているなぁ、と書きながら思っている。
ほとんど記憶が無かったのだけど、こうしてみるとずいぶん思い出せるようになっているし、この時期があるから今があると、感謝の気持ちが湧いてきた。
そんなこと初めてだ。
ただひたすら辛くて一人ぼっちで駄目駄目だった時期の中に、これからの指針となる宝が眠っている気がする。
書きながら、探ってみる。
この時期に、植物や動物と気持ちが通じるような気がしたり、見えない世界のことを肌で感じたり、宇宙意識(としか呼べないエネルギー)などを感じる出来事があり、それは幼い頃からずっとあったのだけど、思い出した、という感覚だった。
それをスピリチュアルというふうに世間では呼ぶ、と知るのはもっともっと後の30歳のときなのだけど、それはまたの話。
とにかくわたしは、どうにも馴染めないこの人間世界で、誰とも共有できない感覚の中で感じる色々を表したくて、爆発しそうだった。
演劇をやってみたかったけど、ひとりでやるわけにもいかず、ひとりで出来る文章をノートに書き続けていた。
詩とも日記とも散文ともいえるような、いえないようなもの。
その中で、こういうシーンが冒頭にあった。
主人公は日常で道化を演じて家族や友だちを笑わせている少年なのだけど、あるときふざけてわざと鉄棒から落ちたところを、知能が少し遅れた男の子に「ワザ、ワザ」と見破られる。
少年は背筋が凍る。
その主人公の男の子が、幼い頃の自分と被った。
私はそれを読んだときに自分も背筋が凍るような気持ちになり、表現をすることがとても怖くなった。
私の感覚はおかしいんじゃないか?自分を特別にしたくてわざとそうしているんじゃないか?と自分を疑いだした。
幼い頃にあの子は変わっているから遊んじゃ駄目と近所のお母さんに言われて一人ぼっちになったこと、自分の感覚を親にもわかってもらえない淋しさ、普通に目立たないように気をつけていても、何それ?奇をてらってるの?と不愉快な顔をされたこと、そういうひとつひとつが積み重なり、私は人と話すことも自分をあらわすこともどんどんと怖くなっていった。
怖いけれど、諦められない表現への欲求によって、二十歳を過ぎてから映画や芝居に出たり絵の個展をしたりしてきたけれど、何をやっても評価をされないことに、だんだんと挫けていった。
人から評価をされないと挫けるほどにしかそれらを好きじゃなかったんだと思う。
自分を認めたい、何者かにならなきゃ、ありのままでは嫌われる、一人ぼっちになる、それは怖い、
そんな中途半端なまんまでやっていたから、それは評価されるはずないと今ならわかる。
でも、そのときそのときで、一生懸命だった。
自分を肯定したくて必死だった。
当時流行った不思議ちゃんと言われないように、でもありのままは見せられないままで。
そして、自分は本当は何者かになりたいだけの、ただの不思議ちゃんなんじゃないか?と自分の感覚を疑いながら。
そしてその、飽和している状態の時に、長く付き合った人と結婚前に別れ、本当に何にもなくなった。
あれからもう10年、私は、なんにもない自分と初めてちゃんと、対面している気がする。
どうしようもない自分のダサさと。
見えない世界の感覚は消えることはなかった。
そして、文章を書きたい気持ちも、やっぱり消えることはなかった。
たとえ誰にワザ、ワザと言われても、ダサくてかっこ悪くて恥ずかしくてみっともなくても、
どう足掻いても自分が自分以上でも以下でもないということが、やっと認められるようになってきたのかもしれない。
かみさまがenjoyって言ってる。