書く。
新しく書き出したものは、
あまりにもナマモノで、
わたし自身、
うっ
となっている。
あんまりにも生々しいのであとで変えていくかもしれないけど、
どこにいくのかわからないこのものがたりと、
いっしょに伴走しようと思う。
わたしがやりたいことは、
いまやっていることは、
多分ひとつの点において、
同じことなんだと思う。
荒削りでもなんでも、
やってみるしかない。
出雲大社にいくぞ
理由は特にないのだけど。
しかも行きたいというか、やたら頭をよぎるとか、やたらその名前を人から聞くとかなので、とりあえず、ああ、と思いながらも、その時まで待っていたのだけど、
あ、これはもう行くんだな、と最近すんなりなったので、行くと思う。
で、昨日ふと、そういえば熊本に出雲大社の分祠ってあるのかなーと調べたら、すぐ近くにあったので、自転車で行ってきた。
しかも迷って迷って分祠の前を何度も通り過ぎ、やっと着いて参拝してきた。
のだけど、伝えたかったお礼をすっかり伝え忘れて、帰り道に自転車乗りながら心を飛ばして再び参拝(なんのために行ったんだかほんとうに・・・)。
で、夜に全然ちがう用事で行った薬局で、普段ぜったい見ないのにシャンプーが欲しくなり(もう何年も固形石鹸で頭も洗っているのに)、なんとなく手が伸びたシャンプーの裏を見たら、島根県出雲の湧き水を使用って書いてあったので、ワオと思って購入。
こういうことってすごく楽しいし嬉しいなーって思う。
よかった、ちゃんとお礼も伝わってたみたい。
そのシャンプーで頭を洗ったら、すごーくスッキリした。
石鹸もいいけどやっぱりシャンプーもいいな。
medelというやつ。
おすすめです。
たのしみだな〜、出雲大社。
旅大好き。
もっともっとたくさん旅がしたい。
ムーブメント
昨日も書いたけど、最近またものすごく動きがあるから(内的な)、あまり何かを書くという気にならないのだけど、
多分内的に今起きていることがこれから外的に大きな変化としてあらわれてくるんだろうという予感がしている。
自転車もいいけど電動自転車はもっといいんじゃないかな、
階段もいいけどエスカレーターはもっといいんじゃないかな、
そしてバイクやエレベーターだってあるよ、
車も飛行機もあるよ、
という、
軽さのほう。
行き先の感覚を風のように、香りのように感じている。
それができればそこへは必ず辿り着ける。
それを知っている。
大事なのはその触覚や嗅覚と、
それを感じられるところまでもっていけるか、要らないものを取り去れるかで、
それだけはどうしても自分自身でやらなければならないことで、自分自身にしかできないこと。
どんな本も他人もヒーリングもボディワークもきっかけや後押しにしかならない。
たとえ宇宙のワークでも。
そこまでは、自分で行かなくてはいけない。
というか、わたしが、そこまでは、自分で行きたかったんだなって思う。
今ならわかる。
旅は続くし終わりはない。
宇宙には果てがないように。
私はどこまでも、私に出会い続けていく。
私とだけしっかりといつも繋がっていられるように。
毎瞬。
メモ
また色々すごく動いているので、このまま満月に突入。
今はきっと睡眠が整理してくれるはず。
月
最近、昼間の青い空に白い月が浮かんでいるのを見て、思わず月に手を振った。
おーいここにいるよー
ここで元気にやってるよー
って。
何も考えずに思わずやってしまったので、とっさに周りを見回したけどさいわい人はいなかった。
なんかすごく元気が出た。
子供の頃からいつも月を見ていた。
昼も、夜も。
見つけると、安心した。
あの頃とは少し違う気持ちで月を見れることがうれしい。
私はここに生きていることがうれしい。
そう思える今がうれしい。
チビトマト
毎週、友だちの高田くん夫婦が作っている無農薬野菜の宅配をお願いしている。
すごくおいしいし、とにかくきれい。
私は料理が別に好きではないので、子どもたちに凝った美味しい料理をつくると考えただけで、ものすごくプレッシャーになる。
料理が好きではないうえにデザイン的な美的感覚もかなり無いので、お弁当とかは本当に「ごめんねーーー!!!」という代物なので、幼稚園はほとんど給食にしている。
最初は給食にすることに対して謎の罪悪感に(勝手に)包まれていたけど、今はむしろ、うちで作らない色んなものが食べられるからいいんじゃないかなと思っている。
で、話は戻って、そんな感じで、子どもが喜んで栄養たっぷり!みたいないわゆる感じの料理に全然興味がないのだけど、それだけじゃなくて、素材が美味しければいいんじゃないか、というか、自分自身が好きで美味しいと思うものが、色々手の込んだ物より素材が新鮮でちゃんとした調味料でシンプルに作られたものだからだと思う。(手の込んだものをそんなに食べたことが無いだけかもしれないけど)
私のいちばん好きな食べ物は自分で作ったおにぎりなのだけど、やっぱり水と塩と海苔は美味しくあって欲しい、ていうかそれが美味しくないとかなり辛い。
おにぎりの美味しさは、素材と、作り手の、手だ。
友だちの野菜は無農薬で安心なのはもちろんだけど、やっぱり、大好きな友だちが作ってる!ということが美味しさを何倍にもしてると思う。
そしてそういう、友だちが愛情をもって育てたものを食べて子どもたちが育つ、ということは、本当に有難いことだと思うし、子どもたちは意識してなくても、きっとそういう「エッセンス」みたいなものは、きっとずっと子どもたちの身体に残って、大きくなって私の手を離れても、ピンチのときにはそのエッセンスがきっと彼等を助けてくれる、と信じている。
その息子(タオ、もうすぐ5歳)がやたらトマトが好きなので、ミニトマトでも作ってみようかと、ベランダにプランターを置いて苗を植えてみた。
小さなトマトの赤ちゃんがポツポツ実り始め、毎日それを、大きくなってきたね、とか言いながら見ていた。
いちばん最初に赤くなったトマトはタオにあげるね!と言っていたら、ある日、タオがこういった。
「赤くなったら、高田くんにあげるよ。そしたら高田くんがまたトマトをたくさんにしてみんなにあげれるよ」
私は、なんて偉いんだ・・・と感心した。私だったら自分の食べる分ばかり考えてしまうところを、この子は高田くんにあげてみんなにあげれるようにするなんて、こんなに小さいのにそんなことを考えているんだなぁと思った。
子どもに学ぶことは本当に多い。
トマトを作ることで食べ物の大切さを知ってほしい、なんて私の想いをはるかにすっ飛ばして(其れも大切だと思うけど)、タオはそれをみんなに分ける方法を考えていた。
いつも思うけど、私が口でなんやかやいうよりも、はるかにたくさんの素晴らしいことを子どもたちはしぜんにあらゆるものから学び取っている。
きっと高田くんの作る野菜たちからも、理屈じゃなくて、それを日々食べるていることから、文字どおり、吸収しているんだと思った。
子どもと接していると、自分の浅はかさや傲慢さに恥ずかしくなることがいっぱいあるけど、それに卑屈になることも縮こまることもなく、あぁ、それってすごくいいね!すごくすてきだね!私もそうなりたい!って言えるようでありたい。
卑屈さとか、縮こまることとか、逆に傲慢になることとか、蔑む事とか、優劣をつけることとか、
もうそういうことから本当に足を洗いたい。
それはただのクセだと気付いて、あ、またやっちゃったなって秒速で軌道修正していきたい。
クセだからこそ、とにかくとにかく、気付いたら、日々修正していくしかない。地味に、地味に。
それこそ自分の畑を耕すように、ひとつひとつやっていくしかないんだなぁと思う。
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