遊び
何か大切なことを寝ている間にわかった気がしても目が醒めると忘れてしまっている、そんな感覚が、ここ最近ずっとある。
その残り香みたいなものを嗅いで、焦らず、弛まず、忘れないようにしている。
無理やり取りにはいかない。
なんとなく。
それは来るから。
甘えや怯えでなく、そんな気がしている。
今自分を見ている、感じているそのことを淡々と続ける。
そこを取りこぼすと、すごーくやって来るものが変わってしまう、そんな気がしている。
なんとなく、たしかに。
自分の神様は自分だし、ケチるな、出し惜しみするなよ、と言われている。
そこを曖昧にするなよ、と言われている。
受け取ることを曖昧にすると出すことも曖昧になる。
出すことを曖昧にすると受け取ることも曖昧になる。
じぶんが曖昧になる。
ことばにするといちいち硬いけど、これらはぜんぶが感覚でしかない。
あらゆることが感覚でしかないことをこれまで人にバカにされたりけなされたり色々言われてきて、私の感覚はくだらなくてどうしようもなくて逃げでしかないのかと思い出し、絵を描いても芝居をしてもなーんにも上手くならないし認められないことにだんだんと自信をなくし、ちょうど大事失恋もして、自分を見失う道を突き進んだ。
どんなことがありなにを言われても、自分を疑い、じぶんを見放す選択をしたのは、私だ。
私が自分を誰よりも見下し、見捨てようとした。
けれど大きな私は私を見捨てなかった。
そのことに感謝しかない。
今ここに来て思う、
「私は感覚でしかなくていいんだ」。
だってそうなんだもん!そうだとしか言えないんだもん!なんかそうだから!なんか嫌だから!好きだから!とか言うたびに、お前は馬鹿かと、だからひとりなんだと、迷惑を考えろと、おかしいと、言われ、
だったらカタチにして見せる!と息巻いても、私の感覚をあらわしたものが人に評価されることがなかった。
最大の理解者だと思っていた人にも見限られた。
それは私がその人も自分も大事にしなかったからだ。
わたしは自分から逃げようとした。
でも、自分から逃げられるわけなんかなかった。
私はこれでいい、と、今やっと言える。
すごい遠回りした。
私はこれでいいというのは、開き直りではないし、小さなわたしの「これではよくない、よくなろう」、というのが常にあるうえでの、大きなわたしの「これでいい」。
感覚、感受性、それこそが私のコンパスと羅針盤。
私にしかない宝物。
錬金術。
それに気づかせてくれた全ての過去、ありがとう。
人生は壮大な実験だ。大いなる遊びだ。
わたしはこれから遊びのステージを変える。
これもなんとなくなんだけど、なんでかそう確信している。
理由も理屈も、ありませんし、意味もわかりません。
でも、そうなる。