否定について
ものすごく晴れた白川公園で、ものすごく久しぶりに友だちに会ったし、ものすごく久しぶりに友だちと話した。
そうしたらその友だちの口からは最近ずっと私が思っている、考えているような、表現のこと、仕事とお金のこと、パートナーのことがどんどん出てきて、まるで自分が話しているようだった。
自分の心のうちが彼女の口を通して出てきて、それに私が返事をするような。
そして彼女に、あなたは魅力的なのにほんとうに自己価値が低い、そのギャップは私が知ってる人のなかで一番だ、と言われた。
私は友だちとそんなにたくさん会ったり話したりするわけでもないのに(むしろほとんど誰とも会わないしやりとりもしない)、私の自己価値が低いのがバレバレなことに驚いて、どうしてわかるの?と聞くと、だってあなたは断固として自分を認めない、いや、とか、でも、とか言う、と言われた。
そのことには薄々気付いていて、咄嗟に口から出るたびに、あぁまた言ってしまったと思っていた。
そしてそういう返事の仕方は自分の母親と全く同じで、母親はいや、でも、から始まり、決して、そうだね、いいね、などの同意をすることがなく、子どもの頃からそれがすごく辛かったし、悲しかったし、嫌だった。
いつのにかそれと全く同じことようになっている、そういう自分がすごく嫌だな・・・と思っていたところだった。
あぁ、やっぱりそうなんだな、しかも相当そうなんだ。
今、友だちの口からそれを聞けて本当に良かった。
否定、否定語、これは、癖だ。
もう単なる癖だ。
よし、今日から、でもー、とか、いやー、とか、やめよう!
自分が自分の幸せになる道をいちばん阻んでいたのだ。
褒められても与えられても、いや、とか、でも、と言って拒んでいたのは私だった。
わかるよ、自己価値をあのどん底からたったひとりで回復するのは本当に大変なことだって。
わかる。
わかるけど、それも自分の思い込み。
そう、思い込みなんだ。
生まれたときのまんまのわたしのタマシイと、ここまで私を生かしてくれている身体に対して、私がいちばんひどい、失礼なことをしてきた。
でも、いや、って私が私を否定し続けてきたんだ。
もう、その呪いの鎖を解こう。
もう、あの終わりのない、カラカラ回るオモチャからピョンと飛び降りて、立ち止まって窓の外の景色を見よう。
大丈夫。
大丈夫だから。
人に嫌われてもいい、むしろ嫌われるくらい自分を生きればいい。
まだ見たことのない景色が、きっとある。
まだ見たことのない景色が、きっと待っている。
タマシイの方へ。