五月雨、ツツジ
寂しいな、と思いながら自転車を漕いでいた。
寂しさはいつだってある。
それは昔からある。
人といても一人でいても。
でも、今の私の感じている寂しさは、具体的な理由のある寂しさで、それは愛する人も愛してくれる人もいないという寂しさだ。
これはパートナーシップのはなし。
男と女というはなし。
色々言い訳はできるけど、単純に、素直に、寂しい。
わたしはずっと昔から、お嫁さんに憧れたことがなかった。
幼稚園のとき、将来なりたいものを画用紙に書かなければならなくて、わたしはなににもなりたくなかったので、すごく困った。
だから、隣の女の子の真似をして、お嫁さんの絵を描いた。
わたしはずっとわたしだから、何かになるということがわからなかった。
中学生くらいになり、夜道を歩いていると、このたくさんある家の人たちはだいたいみんな結婚をして家族を作っているのか、とハッと驚くとともに、気が遠くなるような気がした。
そんなこと、そんな奇跡みたいなこと、ありえないと思っていた。
高校生くらいになると、ジョンとヨーコ、高村光太郎と智恵子、アラーキーと陽子に憧れるようになった。
同時に、お互いがお互いしかない、それほどの人と出会ってしまったら、別れのときはその喜び以上に悲しいわけで、そんなのぜったい耐えられない、と思っていた。
わたしは物心ついたころから、愛を求めながら、同時に、愛を怖れていた。
それがなんでなのかはわからないし、そこを探ろうとは思わない。
ただ、宇宙の友だちアルバートに「君は愛するためにやってきた、この今の地球へ」と言われたとき、ものすごくものすごく泣いた。
知りたいと願いながらも、自分の本当の望みを知ることは、とてもとても怖くて、知らないうちに感じないようにしてしまったりするんだな、ということを知った。
それほど強く、自分が愛し愛されたいと望んでいることを知り、それを認めたとき、その願いの強さに打ちのめされた。
寂しいな、と思いながら自転車を漕いでいた。
小雨が降っていて、冷たい雫がメガネを伝って頬に何粒も落ちた。
寂しさの中でぼんやりしていたわたしは、その雫の冷たさを感じ、次にハッとする香りに目が醒めるようだった。
見ると、道路脇一面数十メートルほど、わたしの背丈を越える高さのツツジが活き活きと咲き乱れていた。そこから香る新鮮な花の香りが艶やかに鼻の奥に届き、わたしの目がサッと開いた。
生きていることを、こういう瞬間に思い出す。
立ち止まって濡れたツツジの花を触り、匂いを嗅いだ。手から命が伝わるようだった。
寂しさが消えたわけじゃないけど、生きている。
やっぱりわたしは生きていたい、そして触れたい。
命に触れたい。
花のように咲き乱れる人生を生きたい。
その自分の願いを怖れずに。
ただ、シンプルに、花のように。